病児保育の累計お預かり件数8万件、病児保育実績15年のフローレンスの病児保育。

子どもが急に病気になった時も安心して自宅で保育を受けることができる、日本初の訪問型病児保育サービスを開始してから15年がたちました。

今回は、15年前、サービスインして間もない頃からフローレンスの病児保育を利用されていた元利用会員さんと、当時の保育を担当していたスタッフ4名との座談会をお届けします。

※この座談会は2017年12月に実施したものです。


今回の座談会は、元利用会員の松川京子さんが「お世話になったフローレンスのこどもレスキュー隊員さん達にひとこと直接お礼を伝えたい」とおっしゃり、フローレンス事務局を訪ねてくださったことがきっかけで実現しました。

過去に娘さんの保育を担当した4名のこどもレスキュー隊員が全員現役で活躍中だと知り、4人を前にした松川さんは、その瞬間に目を潤ませました。

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フローレンスの創設当初から病児保育を利用していた松川さん

元利用会員の松川さんと4名のこどもレスキュー隊員が長い時を経て、当時を振り返ります。

<ファシリテーター:フローレンス広報>

世間からは冷たい母だと見られても、家族には自分が働いていることが必要だった

――松川さん、今日はお立ち寄り下さりありがとうございます。みんな楽しみにお待ちしていました。

松川:いえいえ、最初から感極まってしまって(笑)。あの頃助けていただいたフローレンスのこどもレスキュー隊員の方に直接お礼を言える機会をいただき、ありがたいです。

――松川さんといえば、フローレンスの訪問型病児保育が当時日本初の取り組みとして注目をされ、テレビの取材が入ったときに、利用会員さんとして密着取材を受けていただいたことがあるんですよね。

松川:そうなんです。最近、録画していたのを見直したんですが、娘がギャンギャン泣き叫んでる中、仕事に行くため立ち去る鬼母の図、これには苦笑いでした。駒崎さんもとても若かったですよ。「母になったら家で子育て」がまだ一般的価値観であったあの時代に若くして病児保育事業をやろうとしてくれたことに感謝しかないです。 

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※BS11「INsideOUT」より抜粋
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※BS11「INsideOUT」より抜粋
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※BS11「INsideOUT」より抜粋

 ――松川さんは、当時、どんなお仕事をされていたんですか?

松川:当時は、半導体を扱っている部門の営業でした。2004年に娘を産んで。保育園、ベビーシッター、義理の母、実母、学童、娘が病気の時はフローレンスさんをどうにか回して、働くことを維持していました。

その中でも、37.5℃の壁はやはり大きかったです。フローレンスさんが病児保育の事業をあの時始めてくれていなかったら、働き続けられなかったって今も思います。

――ありがとうございます。今日は当時の松川さんと娘さん家族を支えたこどもレスキュー隊員が一緒にお話させていただきます。

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向かって左から、松本みゆき(勤続9年)、高田眞理子(勤続10年)、松川さん、渡辺誠子(勤続14年)、小笠原まゆみ(勤続14年)
※勤続年数は2017年12月時点のものです。

松川:……あのときは、本当にありがとうございます……!

あの頃は精神的にも大変で。働いていたときと違って、出産後、社会と接点を持てないことがわたしにはストレスでした。実は、産後うつのようになってしまったぐらいなんです。子どもが泣いてるのに働きに出るなんて鬼母だって、周りには見えていたかもしれない。

けれど、社会で働くことがわたしを救って、それが家族の穏やかさにつながったんです。家族であることを、フローレンスのみなさんが守ってくれたから、いつかちゃんとお礼を伝えたいと思っていました。家族仲良くやれている今があるのはフローレンスのおかげ。みなさんが天使に見えます。

――ありがたいお言葉です。だいぶ前のことではありますが、こどもレスキュー隊員のみなさんは、松川さんのこと、覚えていらっしゃいましたか? 

渡辺:娘さんがしっかりしていたのをよく覚えてます。「コップの置き方はこうよー」なんて教えてくれたりとかして。かわいかったわ。

高田:わたしは、マンションの鍵が特徴的だった記憶から、いろいろ蘇ってきました。高層マンションでお部屋まで訪問するルートが難しい!ビクビクしながらお伺いしたのを思い出しました(笑)

小笠原:そうそう、エレベーターに鍵がいるパターンで。まだ、珍しかったから。他のスタッフから聞いてはいたんだけど、わたしもドキドキしながら訪問したことを覚えています。あと、バレーボールが玄関にあったのをよく覚えてます。わたしもバレーボールをやっていたので。

松本:わたしもそのエレベーターよく覚えてますね。それから、松川さんに対してはバリバリ働くお母さんだという印象もありました。

松川:どれもその通りです。すごい、みなさんよく覚えていらっしゃるんですね……!

小笠原:あと、このお花型の大きなビーズで娘さんと一緒に遊んだのを覚えてます。持ってきてみました。これで、糸を通して、アクセサリーを作ったりしたんです。

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松川:え、これまだ家にありますよ!

小笠原:病気の子どもでも楽しく過ごせる折り紙や手作りの小物などは、お子さんがけっこう喜んでくれるんですよ。

松川:このアクセサリーは最近も見た気がします。小笠原さんと一緒に作ったんですね。感慨深いです。家で探してみます!

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後日松川さんから「自宅にありました!」とご連絡いただきました

さまざまなきっかけから飛びこんだ、こどもレスキュー隊員という仕事

松川:フローレンスさんには、小学校3年生ぐらいまで登録していました。扁桃腺炎持ちだったのでよく利用をさせていただきました。そんな娘も今は14歳で、TWICEっていうアイドルグループが好きで将来は音楽プロデューサーになるのが夢みたいです。

将来の夢といえば、ぜひお伺いしてみたかったんですが、こどもレスキュー隊員の皆さんはどうしてこの職業を選ばれたんですか?

渡辺:わたしは、はじめはボランティアのような気持ちから始めました。

小児科と保育園が自宅の隣にあったんですが、忙しそうなお母さんたちが大変そうなのをいつも見ていました。泣いている小さなお子さんにお母さんが怒りながらも、本人も泣きそうなくらい余裕がないことが分かりました。頑張っているお母さんを助けたいなって気持ちがずっとありました。

でも、親戚でもないし、「わたしに気軽に預けていいのよ」なんて言えないなって思ってて。そんなときにフローレンスの病児保育スタッフ募集のチラシをみて応募したのがキッカケです。それから自宅でお預かりをはじめました。

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渡辺誠子
2005年にフローレンスに入社。立ち上げ期からこどもレスキュー隊員としてフローレンスの病児保育を支える。

――当時は、今とちがって、訪問型ではなくこどもレスキュー隊員さんのご自宅で預かってもらう形式からスタートしたんでしたね。

渡辺:そう、当時は、わたしの家にお子さんを連れて来る形だったんです。いざとなったら小児科も、保育園もそばにあるからいろいろ対処できる環境にはあるとは思っていました。そしたら、口コミで広がっちゃってね。その当時は、突然電話がかかってきて、今からでもいいよって感じで受けてましたけれど。

当時のお子さんたちは「おばちゃん保育園」って言ってくれていましたよ。

――おばちゃん保育園!いいですね。そのお子さんたちも、もう高校生ですよね?

渡辺:そう、あんなビービー泣いたりしてたのに、ニキビもできて、りっぱな青年になってます。でも、たまに会うと迷惑そうな顔するのよ(笑)

――地域になじむ形で、理想的な形ですね。フローレンスの原型は地域の助け合いにあったんですね。小笠原さんは、どういう経緯でフローレンスに?

小笠原:わたし、二人目の子どもが欲しかったんですけど、なかなか授からなくて。もういいかな、という時期に、小さい子に接したいなと思ったんです。それで、相模原の北里大病院で小児科の看護ボランティアをやったんです。そこに、病児保育士の方がいて。こんな職業があるんだ、と初めて知りました。

そこから、病児保育士に関心は持っていたんです。その後、たまたま生協のチラシをみたら、フローレンスの病児保育のスタッフ募集を見つけて、応募しました。

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小笠原まゆみ
2005年にフローレンスに入社。渡辺と同じく、立ち上げ期からこどもレスキュー隊員として活躍。

渡辺:そうそう。初期はフローレンスの病児保育が知られていなかったから、こどもレスキュー隊員さんの応募が来なくてねえ(笑) 親御さんが集まるところにチラシを貼ったり、お友達紹介制度とか、病児保育の利用会員さんがスタッフ候補の方を連れてきてくれたら優先して利用いただけるとか、色々工夫していました。

松川:小笠原さんは、我が家に一番最初に来てくださったこどもレスキュー隊員さんでした。生協のチラシに感謝です。

――高田さんはどういうキッカケでフローレンスに?

高田:介護していたおばあちゃんがキッカケをくれました。わたしは、働かないでずーっと家で介護していたんです。家が好きだったし介護は全然つらくなかった。そのおばあちゃん、104歳で亡くなったんですけど、亡くなる1ヶ月ぐらい前にテレビ番組「ガイアの夜明け」でフローレンスを紹介してたのを見たらしくて、「わたしが死んだらこういうところで働くといいよ、向いてる」みたいな事を言われたんです。

その時は「死んだら、なんだ?」「そりゃそうよ!」なんて漫才みたいな掛け合いしてたけど、ぜんぜん働く気なんてなかった。

――素敵な関係ですね。でも、働く気はなかったんですね(笑)

高田:そうなの。でも、おばあちゃん亡くなってからは、脳みそがギシギシいうっていうか、このままじゃボケちゃうかもって思ったんです。

その時におばあちゃんの言葉をなぜか思い出して、行動してみようって思って。ハローワークでおばあちゃんから聞きかじった情報を聞いてみました。「若いお母さんを助けている団体で、病気の子を預かって……そこの仕事がないか」って。そうしたら、フローレンスをすぐに紹介してもらえました。

――すごい!おばあさまに感謝しなければ。

高田:でも、わたし30年間仕事していなかったでしょ。勤め人としては浦島太郎状態だったからいざ仕事が始まると不安はありました。でも、誠子さん(こどもレスキュー隊員の渡辺)が、「命をお預かりしている大事な仕事です」って話してるのを聞く機会があって。こんな素晴らしいことに、関われているんだって感動して、今に至ります。

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高田眞理子(写真向かって右)
2009年にフローレンスに入社。家族の在宅介護後、こどもレスキュー隊員として30年ぶりに就職。

――渡辺さんの言葉、さすが……!こどもレスキュー隊員第一号でありフローレンス内で「レジェンド」と呼ばれる存在だけありますね。

松本:わたしも、渡辺さんはじめ、先輩たちの言葉には勇気をもらって。それで入社したし、続けられてきたというのはあります。

――松本さんの入社のきっかけは?

松本:わたしはもともと、保育園で働いていました。だから、電話する側だったんです。

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――電話というと?

松本:お母さんたちに「お熱がでたからお迎えに来てください」って、電話する側。預かっていてあげたいと思ってもできない。わたし、年の離れた兄弟がいることもあって、お母さんを助けたいって思って保育士になったんですが、実際の現場では、お母さん側に立って融通を利かすことが難しい状況にがっかりしてしまって……。

――それで、フローレンスに興味を持たれたんですね。松本さんは2010年入社なので、フローレンスの病児保育事業が始まって6年経った頃ですが、フローレンスについてはご存知だったんですか?

松本:いいえ、知りませんでした。病気のお子さんってどうしているんだろう、って思って、気になったキーワード「病気」「子ども」「保育」とかで、ネット検索したんです。それでフローレンスを知りました。

――インターネット検索! チラシ、ハローワークときて、ここで、インターネットがやっと出てきましたね。

松本:採用説明会に行ったら古びた雑居ビルで(笑)。それに代表の駒崎が、同年代なのにも驚きました。保育業界にいた人でもないし、それも病児のことだったので、正直、不安は多少ありました。でも、思いに共感できたし先輩たちの言葉も信頼できたので、勇気を出して応募したんです。

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松本みゆき
2010年にフローレンスに入社。前職の保育園勤務から、フローレンスのこどもレスキュー隊員に転職。

子育て環境は10年で、どう変わった?

――お母さんが仕事を失わずに子育てするには、いろんな人のサポート体制があってやっとできることなのかもしれません。松川さんは、当時と変わらず今も忙しいですか?

松川:当時と比べると今はぜんぜん。昔ってパソコンが分厚くて、持って帰れないし。今は薄くて、会議もできちゃうしで、どうにか時間の融通が効きやすい。それに、当時は営業職だったからスケジュールも相手ありきで。あのときは、本当に大変だったんですけれど、忙しすぎて何が大変だったかを覚えてないぐらい。

渡辺:お母さんたちって本当に、休めなくて大変だっただろうと思うんです。子どもの病気で休むというのが許されない冷たい社会でしたね。

――最近は改善されているんでしょうか?

渡辺:以前よりは子育て環境は良くなってきたと思います。最近、お父さん達の引き継ぎが顕著に増えました。

高田:そうそう、お父さんのスタイルが変わったのは感じます。朝の引き継ぎがお父さんが多い。お母さんから言われた通りというよりも、僕のほうが知ってます、というような育児パパが断然、増えてる。 

松本:そういえば、男性のキッチリタイプの方って、キッチリしているお母さんたちよりさらに細かくてびっくりしたことがありました。でも、そういうお父さんは、時間内に正確に引き継ぎを終えてくれるので助かります。 

小笠原:パパが引き継ぎのことをちゃんとわかってないと、お母さんに電話したりとかでどんどん時間が伸びていっちゃうんです。だから、キッチリは、助かりますね。

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渡辺:そうそう、育児パパで思い出した話が。こどもレスキュー隊員は基本、お預かり中のお家にかかってくる電話は出ないんです。だから留守電に切り替わるんですけれど、「◯◯ちゃーん、元気かー?」って留守電にいれるお父さんがいました。14時の経過報告まで待てないでつい電話しちゃったみたいで。電話にずっと呼びかけていらして。微笑ましかったですよ。

松川:うらやましい。うちの夫は育児はちょっとだけって感じでしたね。時代もありますけれど。そういうふうに男性側が変わってきているのなら、子育て戦力が増えるということですから、いいことですね。 

こどもレスキュー隊員の仕事をなぜ続けられたか

松川:みなさんが、長い間この仕事をずっと続けられてきた理由を知りたいです。今日お会いできた4人の方といらっしゃれなかった2人の方、計6人も当時娘を見ていただいた方が現在もこどもレスキュー隊員のお仕事を続けていると聞いて、すごいなって。

――病児保育のお預かり回数が1,500回にのぼると言われる渡辺さん、どうでしょう。

渡辺:わたしは、いろんな孫ができたおばあちゃんみたいで楽しい、と感じているのは大きいですね。赤ちゃんって眠くなるとね、小さく口を動かしておっぱいを探すんだけど、それがもう、かわいいの。ごめんねぇ、わたしで、なんて思うんだけど(笑)

小さなお子さんに接すると、本当に愛おしくて幸せな気分になれるの。それで、長続きしたのかもしれませんね。

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小笠原:わたしは、子どもに関わっていたいという気持ちと、二人目を授かっていたらここで働いてなかったから、「たくさんの子どもを愛しなさい」って神様に言われてるのかな―なんて、勝手に思ったりはしてます。まあ、もう、孫って感じですけどね。そういう気持ちから天職だなあと感じて続けられていると思います。

高田:わたしの場合は、介護のときもそうでしたけど、家にいて誰かの世話をするというのが本当に向いているんだな、と思ってます。実は、夫も周りの友人も3ヶ月もたないって言ってたんですよ。わたしもそう思ってました。でも続いた。友人も夫も驚いてますし、なにより自分でも驚いています。訪問してお子さんを預かってる間は、天職って言っていいかもしれないです。

――とはいえ、お仕事的に大変なことがあった時もあると思うのですが、そういう時に続ける気持ちになる支えは何かありますか?

高田:あります。やっぱり「命を預かる大事な仕事」と誇りを持って働く先輩方がいることが、自分の中での支えになってて。がんばらなきゃって、何度も奮いたたせてもらいました。

松本:わたしも、勇気づけられました。入ってみたら、先輩たちがステキで。経験も豊かで頼もしかった。その方たちから、話を聞ける社内の雰囲気もよかったです。先輩達がいなかったら、わたしは続けられなかったと思う。

松川:保育は訪問型なのでひとりですが、チームという感覚でお仕事されているんですね。孤独にならない仕組みがあるんですね。

小笠原:ええ、こどもレスキュー隊員同士の交流の場は、知識を交換したり悩みを解決したりするのにとても役に立ちました。続けるにあたってとても重要だったと思います。

高田:わたしは、ひきこもりなんで(笑)ひとりなのは、基本は大丈夫でした。けれど、先輩の話が聞きたかったから、そういう場所に積極的に参加していました。本当に役に立ちましたし、仲間がいることは心が折れそうな時に救われました。それが、続けてこられた理由のひとつだと思います。

松川:皆さん、救急隊員や医師ではないけれど、お子さんの命を預かる仕事であるという専門職としての誇りをやりがいにお仕事をされてきたんですね。一方で、責任感が必要なお仕事だけに、緊張で疲れてしまうことはないですか?

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渡辺:そうね、大変なお仕事です。でも、お子さんと心が通じた時の嬉しさは、この仕事の醍醐味のひとつにあって。最初は親御さんと離れるから、わああって泣いちゃう。だから朝は「あんた、だれ?」みたいな感じなんだけど、午後になると安心してきてくれて、膝に乗ってきたりしてくれるんです。「これやって〜」とか、「本読んで〜」とかいって。心が通じたなあって思う瞬間です。表情がちがってくるとね、もう、嬉しくて。保育園みたいに大勢だと分散しちゃうけど、一対一でしょ。

松川:娘のことを思い出すと、こどもレスキュー隊員さんにみていただいていた時は嬉しそうにしていたので、楽しかったんでしょうね。

あわや家庭崩壊の危機、フローレンスがつくった家族の笑顔

――ところで、ママがバリバリ働いていることを松川さんの娘さんはどう思っているか聞いたことはありますか?

松川:お金がなくなると困るから、クビにならないでねって言われてます(笑)

幸か不幸か、娘はまだ「子育てのために好きな仕事をやめる」といった事例も感覚も、まだピンとこないのかもしれません。わたし自身は親に頼ることができたり、シッターさんをお願いすることができました。それは、ラッキーだと思っていますが、こうまでしないと仕事と子育ての両立は無理なのかと心折れるような思いもしました。子どもたちは、こんな思いしなくても子育てができる社会になるといいなと思います。

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――本当にそうですね。松川さん、先ほど、産後うつの話もでていましたが、15年ぐらい前だと「預けて働くなんて子どもがかわいそう」「病気の時は母親が見るべき」など、仕事を続けたいだけなのにずいぶん高いハードルがあったでしょうね。

松川:ええ、もう本当に会社の冷たさは辛かったですね。でも、それでも何とかして社会に出ることができてよかったと思います。

冒頭でも少しお話したんですけれど、わたしは仕事に従事できないことへのストレスがすごかった。職場復帰できなかったら、うつ病や家族崩壊につながっていたと今でも思っているんです。産後クライシスになっていたと思います。家族で笑顔でいるためには、わたしが仕事をしていることが一番ベストだったと、今日、お話していてさらに感じました。

――フローレンスは、松川さんご家族の笑顔のために少しはお役に立てましたか?

松川:もちろんです。本当に感謝しています。当時、病児保育の問題は、本当に大きな問題でしたから。いくらお金があったって預けるところがなければ、どうしようもなかったですし。

フローレンスさんがこの問題に取り組んでいなければ、預け場所がなかった。何度も言っちゃいますけれど(笑)、家族崩壊していたかもしれないと思うとゾッとします。みなさんが、家族の笑顔を、守ってくれたんです。今日、直接お礼を言える機会をもらえて本当に嬉しかったです。

――お母さん、お父さんが働きたいと思ったら働ける、子育てに専念したいと思えばそれもできる。いろんな家族の笑顔があふれる社会が、フローレンスが実現したいビジョンです。ですから、非常に嬉しい言葉です。こちらこそ、貴重な体験談をありがとうございました。

こどもレスキュー隊員の皆さんも、ご参加ありがとうございました。十数年越しにこうして感謝を伝えてくださる利用会員さんにお会いできて、力をいただきましたね!

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全員:これからも、病児保育のレスキューを頑張っていきます。ありがとうございました!


いかがでしたでしょうか。

いざという時に100%頼れる場所があるから、仕事も育児もベストが尽くせる。

お父さんお母さん、親だけで頑張ろうとしないでフローレンスの訪問型病児保育のこどもレスキュー隊員をぜひ頼ってくださいね。

フローレンスの訪問型病児保育は、朝8時までの予約で必ず保育スタッフを派遣します。

また病院の受診は、保育スタッフによる代行受診ができます。

どうしても仕事が休めない…というときにこそ必要な、子育て家庭のライフラインであるフローレンスの訪問型病児保育。

現在、新年度に向けて枠を拡大し、新規入会を受付けております。

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